食べることに丁寧に向き合うのは、人間らしくていい。

Gastronomie



先日、カフエマメヒコで開催する「食べよ、」というイベントに縁があって参加した。この会を通じて学ぶのは食の歴史や文化、それが人々の意識に影響を与え、現代社会を作り出しているという事実だけれど、何よりも一番はっきりとしたことがある。

それは自分が「食べることが好き」というよりも、「食にまつわる文化」が好きだということ。だから作ることも好き、食材を考えるのも好き、何と飲み合わせるかも好き、誰と、どこで食べるかもしっかり考えるのが好き。

私はファーストフードだって食べるし、コンビニも利用する。でも根底には食の大切さ、自分の体が何をとりいれたら喜ぶのかが基本にあった。昔から体を傷めるような食事(脂っぽすぎたり添加物盛りだくさんだったりするもの)にはどこか違和感があり、そのほかにも作業のように食べるとか、「食べなきゃいけない」そう駆られて行う食事が好きじゃなかった。

だから、これからもあくまでも無理をせず自然な範囲で、丁寧に食と関わりたいなと、イベントで皆で食べ比べた塩や砂糖を味わい、舌と脳と体を通じて腑に落ちたのだ。

豊かな食を実現するための範囲の幅を少しずつ広げながら、できることを選択していけばいい。人は0から野菜を作り出すことはできないし、人参や茄子が生み出す鮮やかな色だってコントロールできない。少なくとも私は自然に生かされていると実感しないことには、食べ物に対して失礼だと思っている。

そういえば4月のこと、カフエマメヒコで「春煎り珈琲」を飲んだ。

一口飲んで、びっくり目から鱗が落ちるように驚いた。

なぜか。それは珈琲の豆が生きていたから。数日前に買ったスーパーの袋詰めの珈琲で入れた味は、平べったくてのっぺりしていて奥行きなんて感じられない。ああ、あれは命を失った珈琲だったなとどこか納得させられたようだった。鮮度の問題であって、珈琲豆に生きるも死ぬもないのかもしれないけれど。

もちろん、そんなのっぺりとした珈琲も日常において断つことができない。だからこそ、うまく付き合いながら生きていくのが大切なのかなあって。

特定の食べ物を嫌悪したり否定したりしていくと、食事をすることですら正しいことなのか、疑問が湧いてしまう。人は何かの命を奪って生きているのだから、できるだけその命に感謝して、一番美味しい形で恩恵を受け取る。「食べる」そのものの文化、背景、食にまつわる人や土地や環境に敬意を払う。いま自分の目の前にたどり着いてくるまでの、食材が果たしてきた壮大な旅を想像する。折り合いといえば悲しいかな。でも丁寧に生きるとか食べるとかいう行為は、つまるところ、そういう態度であると思うのだ。